自身所有の一級畑を、1984年に”グラン・クリュ”への格上げ申請したところ、希望通りにならなかったドメーヌということでご存知の方も・・・
《ドメーヌ ジャック・カシュー 》”ニュイ・サン・ジョルジュ” オー・バ・ド・コンブ 2009年。のエチケットを見て、昨年渡仏の際 このドメーヌが所有する〈ラ・クロワ・ラモー〉の畑の前で「何故”グラン・クリュ”にならなかったのか」 と考えた事をふと思い出し、今回のブログとなりました。
エチケットの十字架はヴォーヌ・ロマネ村の畑にある5つの中で一番古いものだそうです。
真上から地図を見れば、確かにこの〈ラ・クロワ・ラモー〉は完全に〈ロマネ・サン・ヴィヴァン〉の一部分に見えますし、DRC社の〈ロマネ・サン・ヴィヴァン〉と一部が隣接さえしています。
というのも、元々の所有者が同じ《マレ・モンジュ家》
しかし、良い土壌では無かった為 〈ラ・クロワ・ラモー〉の部分だけ別に売却しました。
〈ロマネ・サン・ヴィヴァン〉の方は 皆様ご存知、長いフェルマージュの後《DRC社》が購入しています。
(実はこの時点で答えは出ていたのです・・・)
ちょうどDRC社のスタッフが〈ロマネ・サン・ヴィヴァン〉の畑に居たので、写真を撮らせていただきましたが、この高さ
(一番手前のロニャージュをしていない新梢を伸ばしている畑がマダム ラルー・ビーズ・ルロワの所有するロマネ・サン・ヴィヴァンの畑)
(181センチメートルの私の実際には目線より上にに葡萄樹がきています、土の高さは腰より上の辺りになっていたでしょうか、側道が下って行くのに対し畑はほぼ水平に広がって行くので 〈ロマネ・サン・ヴィヴァン〉北東端はかなりの段差になっていて、下がったその先に〈ラ・クロワ・ラモー〉があります)
です。
(1枚上の画像 「ヴォーヌ・ロマネ」の街看板を背にして写した写真)
左側〈ラ・クロワ・ラモー〉。正面方向一級〈レ・スショ〉。(門構えの奥は墓地)
先だってご紹介した 《ドメーヌ フランソワ・ラマルシュ》 も 〈ラ・クロワ・ラモー〉に畑を持っていまして、申請が通らなかった年の1984年から《モノポールで所有している〈ラ・グランド・リュ〉の”グラン・クリュ”認可申請のために尽力し、数年後”グラン・クリュ”の文字が入ったエチケットのワインをリリースすることに成功しました。(1989年11月14日の格付け改定で昇格の承認がなされ、認定されたのは1992年。前年の1991年に生産されたワインからグラン・クリュを名乗れる様になりました。)
「〈ロマネ・コンティ〉と〈ラ・ターシュ〉に挟まれたあの畑が何故”グラン・クリュ”では無かったのか?」
この疑問に答える方が難しいとされる〈ラ・グランド・リュ〉ですら、認可を得るのに5年と膨大な資料が必要でした。
〈ラ・クロワ・ラモー〉に関しては、マダム ルロワもインタヴューで、
「ラ・クロワ・ラモーはロマネ・サン・ヴィヴァンにクラス分けされることは絶対にありません。どんなに望んだところで、ロマネ・サン・ヴィヴァンとしては、畑の位置が低過ぎるのです」
と仰っています。
しかし出来上がったワインを飲んでみると確かに美味しい。
申請したくなる気持ちもわかります・・・
ですが、如何せん 位置的にも、畑にも、ワインにも”グラン・クリュ”の圧倒的なオーラの様な威厳は感じられません・・・
それからもう1つ、
「畑の小ささに加え、所有者が3人も居て1人1人が造れるワインの量が余りにも少なく、品質が安定しにくい」
事も認可されなかった理由のひとつだと思います。
綺羅星の如く特級畑が輝くヴォーヌ・ロマネ村。
この村では、余程の品質と知名度、畑の立地、造り手の情熱が無い限り 新しい特級畑は産まれないのです。
次に”グラン・クリュ”が誕生するとすれば、1級〈クロ・パラントゥ〉かリューディーで区切るという条件付で1級〈オー・マルコンソール〉辺りでしょうか。
お気付きの事と思いますが、先ず上記2つの畑が昇格しない限り 他の”プルミエ・クリュ”が”グラン・クリュ”に成ることなどヴォーヌ・ロマネ村に於いて道理的に絶対に無いと思います。
残念ながらこの二つの畑の所有者は申請するつもりが無いようですけど・・・マダム ルロワがこの場所で写っている写真は有名ですね。
画像一番手前斜面上部が〈DRC 社モノポール〈ラ・ターシュ〉または
〈レ・ゴーディショ〉。
その先右側方向が
〈オー・マルコンソール〉
因みに《ドメーヌ フランソワ・ラマルシュ》は〈マルコンソール〉にも畑を所有している事は既にお話ししましたが、ついでに言うと画像左側 緑の鮮やかな辺りから左側が 特級〈ラ・グランド・リュ〉です。