当主エチエンヌ・グリヴォ氏。
《ドメーヌ シモン・ビーズ》当主パトリック・ビーズ氏の妹さんと御結婚していて この世界的に有名な2つのドメーヌは、血縁によって繋がっています。聞くところによると、若かりし頃、《ドメーヌ ジョルジュ・ルーミエ》当主クリストフ・ルーミエ氏と共に《ドメーヌ シモン・ビーズ》当主パトリック・ビーズ氏のワインを試飲する為にドメーヌへ行ったところ、エチエンヌ氏はマリエルさんに一目惚れし、その場で結婚を心に決めたそうです。
昨年ドメーヌ訪問の際、その事を伺うと、ニコッと微笑んで
「(振り向いてもらうまで)2年かかったよ」
と仰ってました。エチエンヌ氏、「これ」と思ったら、決断は早いです。
エチエンヌ氏が試飲の準備をなさっている間、お相手下さったのはその奥様、マリエルさんで、ドメーヌの所有畑の位置など地図を利用して教えて頂きました。
ブルゴーニュは、ドメーヌ同士の婚姻が多いので どこかのドメーヌと どこかのドメーヌはどこかで繋がっていたりします。
例えば、
《ドメーヌ ジョルジュ・ルーミエ》と
《ドメーヌ デ・コント・ラフォン》
《ドメーヌ ペロ・ミノ》と
《ドメーヌ トプノ・メルム》
逆に、所有畑の借地契約のこじれから、ドメーヌ同士で裁判をしている案件も数多くありますので会話には充分に注意が必要です。
などなど・・・ワイン造りに直接関係ありませんが、ドメーヌ訪問の際、会話の糸口になる知識は持っていて損が無いです。
エチエンヌ氏は、ワイン造りに関しても決断の人で 1993年のブルゴーニュ全体が ミデュー(べト病)に襲われた時もビオデナミの枠にとらわれず必要最低限の薬品を散布して、無事例年通りの収穫量を確保したそうです。
氏曰く「目の前に苦しんでいる子供がいたら放っておけないよ」。
エチエンヌ氏らしいです。
また一方 最後までビオデナミにこだわった マダム ルロワの畑は、壊滅状態だったことは以前このブログで書いた通りです。
がしかし、その時もその後もビオデナミ農法を一度も曲げていない
《ドメーヌ ルロワ》の畑は、土壌から強くなり、葡萄樹はちょっとやそっとの病気には負けなくなりました。
《ドメーヌ ルロワ》のワインは、
他のドメーヌの同クリマワインの金額より
“ゼロ”が1つ多いから出来たのか、
やり通したから”ゼロ”が1つ多くても買い手が付くのか・・・
正解はわかりませんが、良し悪しは別にして エチエンヌ氏の決断もマダム ルロワの判断も苦汁の選択だった事に変わりはありません。
醸造コンサルタントの
“ギィ・アッカ氏”に傾倒した時も、決別した時も、決断は早かったです。
以前 「40歳を越えて迷わなくなった」 とワイン誌のインタヴューで応えていたのが印象的でした。
今でもエチエンヌ氏は奥様ととても仲が良く、近くに居るだけでこちらも楽しくなるのですが、ドメーヌでの試飲中、地下のカーヴに入れ替わり立ち替わりスタッフや御家族がいらっしゃって、終始 和やかに時間が過ぎて行き一時間半の約束時間は本当にあっという間・・・。
とても親日なエチエンヌ氏・・・義理のお姉様が(年下の)日本人女性ですので、たまに冗談まじりに日本語が出たりします。
そういえば、パトリックさんが千砂さんのご両親に挨拶をする為に来日した時、「一人では心細い」 と言うパトリックさんの頼みを聞いて、エチエンヌさんは一緒に来日したそうです。エチエンヌ氏の人が良くて、親切で、優しく、おおらかで、包み込むような包容力は間違いなく そのワインに宿っています。
《ドメーヌ ジャン・グリヴォ》のワインを飲むたびに、訪問時の応対の温かさを思い出し、穏やかな心持にさせて頂いています。数々のタートヴィナージュワインを獲得しています。サインを頂いたクロ・ド・ヴージョ グラン・クリュ 2008年。
試飲ワインの中で別格だったのが リシュブール グラン・クリュ。樽からの2011年、ブティユからの2010年、共にドメーヌを代表する出来栄えです。