1992年1月15日を最後に DRCを解雇された マダム ラルー・ビーズ・ルロワ。
翌年 更なる試練が待ち受けていました。
自身のドメーヌ《ドメーヌ ルロワ》の葡萄が、ミデュー(キノコの一種)に侵され 所有畑全体の約80パーセントの葡萄が被害を受けました。
心無いジャーナリストや関係者が、マダムの失敗を嘲笑ったそうです。
(ビオデナミが今ほど市民権を得ていなかった頃ですから・・・)
普通の人間なら ここでおしまい。
でもマダムは諦めませんでした。
徹底的な選果を行い、残り少ない、だけれども良質な葡萄だけを選りすぐり、ワインを造りました。
誰も期待などしていなかったそのワイン。
1人の米国人ワインジャーナリストが後に大絶賛する事になります。
ワインに点数を付ける事で有名な (しかも大変シビアな点数付け・・・) そのジャーナリストは、1993年ドメーヌ ルロワのワイン 3アペラシオンに100点満点を献上したのです。
この事は世界的なニュースになり、一般誌でも取り上げられていた程です。
ロマネ・サン・ヴィヴィアン
リシュブール
クロ・ド・ラ・ロッシュ
100点を与えられたワインは上記 3つのアペラシオンですが、
「1993年程大変だった年は 後にも先にもあれ一度きり。朝から夜中まで本当に良く働きました」
とマダム ルロワもインタヴューで仰っていましたので、その他のアペラシオンも察して知るべしです。
また 冷静に対処、対応、支援をした大株主の高島屋も凄いと思います。
マダム ルロワはパートナー選びの時点で成功を掴んでいたのです。(大手シャンパーニュ メゾンのモエ・エ・シャンドン社は選ばれませんでした・・・)
通称 ”赤キャップ”(1993年はアルミキャップ。前後に蝋キャップも使用、でも私はあれ、ゴムキャップだと思うんですけど・・・)
つまりドメーヌ物の 1993年ヴォーヌ・ロマネ 1級 レ・ボーモン を試飲する幸運を頂きました。
本来 1級なら堂々と誇らしげに畑名の上か下、もしくは横に書かれているはずの ”premier cru” の文字・・・ドメーヌ ルロワのエチケットには表記されていません。
(《ドメーヌ ルロワ》は ”Grand cru”しか明記しないのです)
”レ・ボーモン”最大の所有者であるマダムは、この偉大な畑が1級として甘んじている事を良しとしていないのでは無いでしょうか・・・
併せて抜栓したワインは・・・
ポル・ロジェ NV
1996年 ドメーヌ デ コント・ラフォン ムルソー1級 レ・ペリエール。
2008年 ドメーヌ ユドロ・バイエ
ボンヌ・マール グランクリュ。
1997年 ブシャール・ペール・エ・フィス だった頃の ヴォーヌ・ロマネ 特級 ラ・ロマネ。(畑はロマネ・コンティとまったくの地続きで斜面真上に位置する)
現在の造り手は、元々この畑の持ち主であるドメーヌ コント・ド・リジェ・べレール。
2002年~2005年はモノポールなのに ブシャール・ペール・エ・フィスとドメーヌ コント・ド・リジェ・ベレールのダブルネームになっています。
が、しかし これだけのグランヴァンの中で、ひときわ存在感を見せ付けたのは・・・ 19年前にマダム ルロワが手塩にかけて造ったワイン ヴォーヌ ロマネ プルミエ クリュ ”レ・ボーモン” でした。
5.4cmもある長いコルクはドメーヌ ルロワの特徴である 緩めの打栓。
恐らくコルクに圧縮をかけていないのでしょう。
取り外してみるとコルク全体にワインが廻っていて19年前のコルクとは思えない程 「スッ」 とぬけました。
普通ならボロボロでもおかしくありません。
「吹きやすい」とか「気圧の変化が激しいので、飛行機で運べない」等 ルロアのワインには数多伝わるネガティブな意見も有りますが、完璧な保存が可能なら、コルクは緩めの打栓が長期熟成に適しているのでは?などと深読みしてしまう程、この個体は素晴らしかったです。
長い余韻、時間が経っても弱る事は一切無く、3時間後に空になったグラスの残り香で食事が出来ます。
Oさん、貴重かつ高価なワインをありがとうございました!